2024年7月19日 更新
#63
サヨナラ、道新ホール。
道民一人ひとりの記憶の中に、
名場面、名演技、名演奏を残して、
またひとつ、札幌から文化の灯火が消えました。
これも時代の流れなのでしょうか。
私にとっても思い出深い場所でした。
あの超人気落語家さんと舞台に上がり、
口上を述べるという大役を
果たしたわけですから…。
この札幌のカルチャーシーンの危機。
ここで脇坂肇は一肌脱げるのか…?
脱げないのか…?
2024年6月30日をもって、
道新ホールが閉館となりました。
札幌市民、いや道民にとっては、
一抹の寂しさを感じるニュースです。
音楽に芝居、古典芸能、お笑いと
様々なエンタメが上演されたホールですから。
北海道で青春を過ごした人であれば、
一度はあの空間に
足を踏み入れたことがあるはずです。
ホールの開業は1963年。
私が1962年生まれなので、
ほぼ“同級生”ということになります。
や、若干私のほうが先輩ですね。
1秒でも早く生まれたら先輩だと、
日本国憲法に書いてあった気がしますから。
ええ、昭和の体育会系の発想です。
そこらへんはきっちり線を引くタイプなんです。
ただ、あっちはキャパが700席。
先輩の私に、人として
そんなキャパがあるんだろうか…。
この前も飲み会で、
皿に1つだけ残ったザンギを
光速で取りにいったような私に…。
…なんの話でしたっけ?
あ、道新ホールの閉館についてでした。
2024年秋に予定されている
道新本社の移転がその理由です。
建物そのものの老朽化が進んでいるから、
やむなしということでしょう。
60年以上を超えると、
建物は役目を終えて退いていくわけです。
そりゃ、同じく60年を超えた
人間の私にもガタくるってもんです…。
記憶力とかね…。
…なんの話でしたっけ?
あ、道新ホールの閉館について、でした。
思えば、道新ホールには、
当社の節目節目でお世話になってきました。
創業20周年と25周年のイベントを、
開催した場所ですから。
いち札幌市民としてだけではなく、
会社としても思い入れのある場所なんです。
2024年6月28日、29日、30日、
つまり道新ホール最後の3日間には、
私の友人、
立川談春さんの独演会が開催されました。
まさに大トリです。
もちろん全席完売。
もともとチケットが取れないと言われる
超人気落語家ですからね。
当然でしょう。
え、私はどうしたかって?
私は大人ですからね…。
大人の力を使って、
28日と30日の2公演にお邪魔してきました。
手にしたプラチナチケット。
昔を懐かしむためにも、
アロハシャツを着て、サングラスをかけて、
道新ホールの入口付近で
「はい、券あるよー、券あるよー、
あ、お姉さん、券持ってる?」
と昭和オマージュなことをやろうとは
1mmも思っていなかったのでご安心ください。
立川談春さんにとって、
道新ホールは幾度となく独演会をやっている場所。
別れを惜しむかのように、
「文七元結」「鼠穴」「紺屋高尾」
といった古典落語の定番、
人情噺のネタを披露していました。
談春さん曰く、
「いやー、僕って
舞台のこけら落としに呼ばれることが
あんまりなくて、
なぜか、今回のように
閉館みたいな時に呼ばれるんだよなぁ〜」
なんてぼやいていたことを書き添えておきます。
談春さんらしいですねぇ。
そもそも、
私と落語との出会い=談春さんとの出会いなんです。
こちらでも紹介していましたが、
改めて、事の経緯をちょっとお話しましょう。
話は約18年前にさかのぼります。
とある金融機関主催の異業種交流会に
私は参加していました。
ある時、
「各グループでイベントを企画して、
開催しましょう!」
というミッションが下り、
数人ごとのグループにわかれて、
アイディアを出し合うことに。
私のグループでは、メンバーの一人が
「落語会やりたい!」
と言い出したんです。
当時の私は落語の「ら」の字も知りません。
というか、その言い出しっぺを含めて、
誰も落語に明るくなかったんです…。
(それでよくやることになったな…)
当然、落語家を呼ぼうにも、
誰もコネクションがありません。
まずは次回打ち合わせまでに候補を出しましょう、
となって、
私は「さて…」と困りました。
落語に興味なかったですから、
「あの落語家がいい!」
とかは当然皆無なわけです。
そこで思い出したのが、馴染みの小料理屋のこと。
当時、ちょいちょい足を運んでいた店で、
よく芸能関係の人が集まる店だったんですね。
大将に相談すれば、なんとかなるのでは…
と声をかけてみたところ、
ある芸能事務所を紹介してくれました。
放送作家の奥山コーシンさんの事務所です。
奥山コーシンの名を知らずとも、
昭和世代なら、
彼が手掛けた番組は必ずや知っているはずです。
「シャボン玉ホリデー」
「8時だヨ!全員集合」
「ザ・ベストテン」etc.
そうなんです、
伝説のバラエティー番組を手掛けた
放送作家さんなんです。
その事務所の社長さんと
打ち合わせすることになったのですが、
「で、脇坂さん、誰を呼びたいんですか?」
と聞かれて、黙ってしまった私。
だって知らないんですから…。
きっと内心呆れているだろう社長さんは、
「じゃあ、開催する日時が決まっているなら、
その日付優先で人選しましょうか…」
と助け舟を出してくれたので、
私は「ヤッホーイ!」とその舟に飛び乗り、
候補を何人か出してもらいました。
その一人が立川談春さんだったんです。
当時、まだ今ほど売れていない頃です。
というわけで、異業種交流会が主催する
「落語とお笑いの会」
が無事に開催されました。
場所は定山渓温泉のホテル。
タイトルに「お笑い」とある通り、
お笑い芸人も呼んだのです。
なんと、あのオオタスセリですよ…!
…あれ?
反応が薄いな…。
「ストーカーと呼ばないで」
という曲、ご存じないですか???
CDが1万枚も売れているんですけど、
おかしいな…。
あ、その曲は歌詞が問題で
放送禁止になったらしいから、そのせいか…。
以来、計3回、
落語とお笑いの会は開催されました。
ちょうど3回目を開催した頃に、
談春さんは「赤めだか」というエッセイを出版。
これが大ベストセラーになったんです。
札幌の書店で出版イベントをする際に、
私手伝いに行った記憶があります。
「赤めだか」のヒットをきっかけにして、
立川談春人気はみるみる上昇していき、
「ルーズヴェルト・ゲーム」や「下町ロケット」
といったドラマ出演によって、
その存在がお茶の間にも広く知られるように
なっていきました。
彼が超人気者になる前に、
知り合えた私はラッキーでしたねぇ。
あの時、異業種交流会の会議で、
「落語なんてつまんないから、
マジシャン呼びましょうよ!」
と言い張っていたら、
今頃、談春さんとは知り合っていなかったわけで。
代わりに引田●功の手品によって、
私は箱の中から飛び出していたことでしょう。
(それはそれで良い気がします)
異業種交流会の主催者である金融機関が
設立95周年を迎えた時も、
談春さんを招いて、落語を披露してもらいました。
私も友人として現場に付き添っております。
会場にいたのは金融機関に勤務されている
主におじさんばかり(失礼)です。
しかも、落語ファンはほぼいなかったはず。
談春さんからするとかなりのアウェイ。
にも関わらず、半分くらいの人が
彼の話芸に涙をこぼしていました。
プロの凄さを、
まざまざと見せつけられましたねぇ。
これ以来、
「立川談春さんにトークを教えたの、
私ですから!」
みたいな冗談は死んでも言えなくなりました。
すっかり前置きが長くなりましたが、
本題である
道新ホールと談春さん、脇坂工務店の話です。
あれは、2014年のこと。
すっかり仲良くなった談春さんから、
突然電話かかってきました。
「あ、脇坂さん、どうもどうも。
道新ホールを押さえておいたからね!」
「え…?????」
「え、ひょっとして忘れたの?
去年の年末飲んだ時、
あんなに盛り上がって話していたじゃない」
…。
…。
あ、思い出した。
年末、食事の席で談春さんから、
「脇坂さんの会社、来年20周年なの?
だったら、私も芸歴30周年だから、
いっしょにやろうよ」
という提案をもらって、
「やりましょう、やりましょう!」
と前のめりになっていたことを
すっかり忘れていました。
ここからトントン拍子に
当社の周年事業としての開催が決定。
チケットの半分を当社が買い取り、
普段お世話になっている取引先やお客さまに
プレゼントしました。
当日は大盛況。
私もステージに上って、
口上を述べさせてもらったのは、いい思い出です。
談春さんは披露してくれた噺のなかで、
落語家なりの、
独特な餞(はなむけ)の言葉をくれるんですよ。
例えば、脇坂工務店がスポンサーの会だとしたら、
大工が出てくるような演目を選んでくれて、
「ずいぶんと立派な家だねぇ。
え、なんだい、脇坂工務店で建てたのかい?」
といった具合に
噺をちょっとアレンジしてくれるんです。
粋なはからいですよね。
今でも20周年の時のことは鮮明に思い出せます。
いい時間があのホールには満ちていました。
そんな10年前と比べて、
道新ホールを取り巻く環境は大きく変わりました。
新幹線の延伸や、
オリンピック招致などに関係して、
札幌中心部の再開発がものすごく活発です。
駅前通りなんて常に工事しています。
大通りのシンボルだった4plaはなくなり、
ホテルオークラは閉館。
北陸銀行札幌支店跡地には、
ほくほくフィナンシャルグループの
新社屋が竣工しました。
多くのビルが取り壊され、
次々と新たな建物が生まれています。
ただ、建築屋的な立場からすると、
現在の状況はなるべくしてなった、
と思っています。
日本は地震大国です。
そのため、耐震基準というものが、
年々厳しくなっているんですよね。
直近の能登半島地震のように、
これだけ頻繁に大規模地震が起きていますから。
ちなみに地震がほぼ起きないアメリカでは、
耐震性能はあまり重視されていないようです。
例えば、著名なロックフェラー・センターは
1939年に完成したビルですよ。
日本人の感覚だと、
あんな超高層建築物がそんな築年数なんて
大丈夫かな…となりますが、
あちらの国だと普通なんです。
札幌が一番の建築ラッシュに沸いたのって、
札幌オリンピックの時代だったと思います。
1972年前後ですね。
市内を見渡してみても、
その時代に建てられたものは多い。
今やそれらが耐震基準を満たせなくなっていて、
建て替えられているわけです。
現在の耐震基準などのルールを
満たしていない建物を、
「既存不適格」と呼ぶんですが、
そういう建物が増えていってるんです。
アメリカやヨーロッパと比べると、
日本はスクラップアンドビルドの国と
表現されますが、
良くも悪くも当たってると思います。
日本の法律で定められた耐用年数は
木造だと22年、鉄骨だと34年、
RCだと47年しかないんです。
人の一生と比べると短いですよねぇ。
もちろん、既存不適格の建物だとしても、
補強工事をすれば耐震基準はクリアできます。
ただ、問題となってくるのがお金。
オーナー目線で考えた時、
多額の費用をかけて補修して建物を残すのか、
ってことです。
「だったら建て替えて、
収益性や資産価値を上げよう」
という判断になりがちなんですよね。
補修より建て替えたほうが
結果的に安くつくパターンは多いですし。
合理的といえば、合理的です。
そんな大きな流れの影響を受けているのが、
道新ホールのような存在。
移転後の新社屋には
同種のホールを設けないそうですね。
「え、なんでホール作らないの?
文化の発信地として大事じゃないですか!」
という人も多いでしょう。
まあ、わかる。
気持ちはわかります。
ただですね、一端の経営者としては、
「あの規模の施設を維持するのって、
かなり大変なはずなんだよなぁ…」
と遠い目をしてしまうのも事実。
道新くらい体力のある会社じゃないと
厳しいでしょうね。
道内には、もっとお金を持っている企業も
あるんでしょうけど、
だいたい上場しているわけで。
株主から
「ホールのような利益を生まないことに、
お金を使うのはいかがなものか!」
って絶対言われますから。
世知辛い世の中です。
そりゃ、ホールの使用料を高く設定する
という選択肢もありますが、
すると今度は、興行を主催する側、
いわゆるイベンターから敬遠されるようになります。
ただでさえ、北海道ってライブや芝居などの
興行にとって不利な場所。
出演者やスタッフの移動費・機材などの輸送費が
他地域に比べてかかりますし、
ファンが道内の広大な土地に分散しているから、
なかなか集客が厳しい、つまりチケットが売れない。
北海道が組み込まれていない
ライブツアーってありますよね。
「北海道とばし」なんて揶揄されている、アレです。
そんな不安要素がある土地だから、
高いホール代払ってまで札幌公演やることには
なかなかならないですよねぇ…。
ただ、談春さんは道新ホールのことを、
「ちょうどいい大きさ」
と表現していました。
東京国際フォーラムのような
数千人も入る会場でやる人からすると、
お客さんの顔が見えるし、
大きすぎず小さすぎず、いいんでしょうね。
人間関係がネットを介して成立し、
非リアルなコミュニケーションが多くなった現代。
リアルだからこそ価値を発揮する文化ってのは
たくさんあります。
まさに落語は最たるもの。
人がひとつの場所に集まって、
同じ感情を共有する文化が
江戸時代から続いているなんて粋じゃないですか。
私は落語が好きだし、音楽も好き。
そういったカルチャーを育み、
接することができる場所を、
札幌から絶やしてはいけないと思っています。
なんでもかんでも合理的にやるのは
おかしいと思うんですよね。
合理的じゃないからこそ、
生まれるものってあると思うんです。
うーん、これは、
脇坂肇が一肌脱ぐ時が来たか…。
道新ホール規模の会場を、
新たにつくるのは脇坂工務店なのでは!
…と一瞬思ったんですが、
すいません、無理っす…。
うちがやるのは無理っす…。
私たちは道新ホール以外でも会場を借りて、
イベントを主催したり、協賛したりしてきましたが、
興行って、まあ儲からないんですよ…。
ていうか、赤字です…。
札幌の文化の火を絶やしたくないのは山々ですが、
脇坂工務店が火の車にはなりたくないので…。
一肌脱げないっす…。
というわけで、文化活動に理解のある大企業様、
どうぞよろしくお願いします。
私も微力ながら、陰ながら、
本当に陰に隠れながら、お手伝いしますので…。
あ、
ホールを建てる仕事なら受けたいです(揉み手)。
脇坂肇